「死」を考える

 飛行機に乗った。

 雨上がりの空の上は輝いて、白い雲がどこまでも続いている。日光に照らされた鉄の翼が、つんと青空の中に伸びていた。


 飛行機は苦手だ。

 常に真後ろに「死」を感じるから。


 横断歩道を歩いて渡っているとき、自転車で坂道をくだるとき、「死」は割とどこにでも転がっている。

 けれど、日常に紛れた「死」には人は鈍感になる。飛行機に乗ったときや異国を訪れたときなど、非日常の方が「死」のにおいを近くに感じる。


 私はまだ、「死」ぬ準備ができていない。だから、「死」がとてもこわい。


 ジャーナリストの知り合いと話していたとき、その人は人生の残りについて「もう50年しかない」と言った。

 私は「まだ50年もある」と言った。


 これは「生」への向き合い方の違いか、それとも「死」への向き合い方の違いか。


 その人は、生きているうちに成し遂げたいことがある。けれど、それは国を変えるようなことであり、かなりの時間がかかる。

 生に向き合っているからこその「もう50年しかない」である。


 一方の私は成し遂げたいことなんて特にない。ただただ「死」が怖いので、遠くに感じたいだけ。

 生に向き合わず、「死」から逃げたいがための「まだ50年もある」だ。



 死にカタログ』という、「死」について書かれた本を手に取ったことがある。


 シンプルなイラストや文章で「死」についての様々なことが書かれていた。小さな子どもでも読めるような面白さだった。その本の中の「死に向かって生を折りたたむ」といった文が深く印象に残っている。


 今の生をどのように「死」に収束させるのか。

 そもそもとっちらかっているように見えて空っぽの生なので、とりあえずやりたいことを考えることにした。


 私は自分の思考回路をあまり信用していないので、人が作り上げたノウハウが好きだ。

 そういうわけで、『死ぬまでにしたい100のことを書くノート』を買ってみた。

 文字通り、死ぬまでにやりたい100のことを書く。



 あれもこれも、とたくさんことをやりたいと思っていたけれど、改めて考えて書き出してみるとやりたいと考えていることは10にもいかなかった。

 はたして、この10にもいかないやりたいことを「死」ぬまでにできるのか。したところで、それは「死」へ生を折りたたんでいると言えるのか?


 人生はあと50年とちょっとしかないけれども、焦らずゆっくりと確実に生きていくのが一番の近道な気がする。

 気がするだけで、正解かはわからないし、そもそも正解があるのかどうかすらわからない。


 飛行機は離陸すれば着陸に向かう。その間にすることはルーチン化されている。

 人間は産まれると死に向かう。けれど、その間にすることは何一つルーチン化されていない。

 難しいことをすべて放り出してベッドで寝たい。


 そんなことを考えているうちにいつの間にか着陸態勢に入っていたので震えながらペンを置いた。今日はここまで。


死にカタログ

死にカタログ